★福王様伝説 |
[福王様]
・飛鳥(あすか) 時代、中大兄皇子
(なかのおおえのみこ:後の天智天皇)
は、大化の改新で、蘇我氏を滅ぼし、
その後天皇になられました。
・大友皇子は天智天皇の皇子で、
天智天皇が崩御された後、天智天皇
の弟の大海人皇子((おおあまのおうじ:天武天皇)、との戦い(壬申の乱:672年)で敗北しました。
・大友皇子の皇子の福王丸様は、
千葉県袖ケ浦市に逃れてこられ、
奈良輪高洲付近の海岸に上陸、集落外れの”おふごの森”に住まわれました。
・おふごの森は、標高8~9mの高台で、昔は東京湾の眺めが良かったところです。
・しかしながら数年後にお亡くなりに
なられ、居住地に葬られ、その場所
に祠が建てらました。
・これが福王神社の始まりで、その後、
福王神社は1670年代に、直線距離で約800mの現在の福王神社へ移されました。
(袖ケ浦市図書館蔵、”袖ケ浦市史(資料編:原始・古代・中世)”を参考にしました。)
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[福王丸様居住跡”おふごの森”]
・福王丸様一行は、奈良輪の高洲海岸に上陸し、おふごの森にお住まいになられました。 |
[おふご森(福王森)]
・おふごの森(福王森)には、現在”大勒天”を祭った神社があります。
大勒天宮
・お社の中には、木の株の板に、”大勒天”と書かれています。
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[おふごの森・・福王丸様のお住まいがあった場所]
・おふごの森は、国道16号奈良輪陸橋と、千葉県道87号袖ヶ浦姉ヶ崎停車場線(旧国道16号)と立体交差点近くにあります。
・上図の福王丸塚の場所は、袖ケ浦市史を参考にしました。 |
[おふごの森長見塚碑]
・おふごの森(福王森)の入口の左にある古墳の碑です。
・おふごの森長見(ちょうけん)塚碑
・碑には、”この森は、大勒天宮の境内であり、塚もこの内にある”と書かれています。
・福王丸塚であることを期待していましたが、意味深な書き方です。 |
[福王丸塚、上奈良輪古墳]
・袖ケ浦市史によると、おふごの森(福王森)近辺には二つの古墳があります。
・一つは福王丸塚で、もう一つは上奈良輪古墳(長見塚)です。
(もう一個あったのかもしれません。)
[福王丸塚]
・福王丸塚は、高さ2.1m、直径23.2mの円墳で、あったという事です。
・近くの民家の庭には、整地の際出土した”福王神”と刻まれた石碑が祀られています。
[上奈良輪古墳]
・おふごの森(福王森)の入口左には、古墳があり、上奈良輪古墳(長見塚)と呼ばれています。
・大勒天宮の入口にある長見塚です。
・長見塚碑は太い木の向こうあたりです。 |
[福王丸塚はどれ?]
・福王丸様は、落ち延びられて、高洲の浜から上陸、おふごの森に住まわれ、数年後にお亡くなりになられ、おふごの森で葬られたとのことです。
・財力も、権力もないとすれば、大きなお墓を作るゆとりはなかったのではとも考えられます。
・小さなお墓であれば、その後消滅したかもしれません。
・国道16号建設、福王台造成などもありました。
・でもやはり、福王丸様は大きな古墳に休まれていると思いたいですね。
・でも他の豪族様のお墓を、無理に当てるのは、大変失礼に当たります。
・ここでは、おふごの森(周辺か)にあるもう一つの古墳を紹介します。
[福王丸塚?]
・大きな古墳ですが、標識も何もありません。
・高さは2m以上、直径は20m位で、長見塚の2倍くらいはある大きな古墳です。
・だれの古墳かは判りません。
標識などは見当たりません。
・柵があり、中に入れません。 |
[福王丸塚?何処]
・福王丸塚は、何処?。
・上記のおふごの森マップの福王丸塚とは、50m離れています。
・この古墳は、崖地の際に建ち、千葉県道87号線は海抜6mで、崖の上の丘陵地の海抜は約16mです。
・古墳の高さは2m以上あり、古墳は大きな木で覆われており、眺望は悪いですが、東京湾、富士山の見晴らしが良いところです。
なお、京都の方向は、真西に近い富士山の向こうにあたります。
★福王丸古墳をご存知の方が居られましたら、教えてください。 |
[福王神社]
・福王丸様が逃れてきたとされる1月9日が、福王神社の祭礼日です。(現在の祭礼は第2日曜日)
・福王神社は、福王台住宅団地の
端にあります。
・崖の上標高26mの高台で、富士山、東京湾の眺めのいいところです。
・JR袖ヶ浦駅の東方の国道16号線の周辺に広がる福王台1~4丁目の大きな住宅団地は、1970年代に開発され、福王様の由来から福王台と名づけられました。 |
[福王神社マップ]
・JR東日本内房線袖ヶ浦駅南口から約550m徒歩7分です。
・国道16号マクドナルドの信号交差点から入ります。
・千葉県道87号からも入れます。 |